新庄城の歴史
新庄市は、新庄藩6万8千2百石の城下町です。新庄城は寛永2年(1625年)に新庄藩祖の戸沢政盛によって築かれました。
別名で沼田城(ぬまたじょう)、鵜沼城(うぬまじょう)と呼ばれました。この城は三重の堀に囲まれた平城で、初代藩主政盛から11代藩主正実まで約243年間、戸沢氏が領内を治めました。
本丸の南側に小さな二の丸が並列状に配置され、その外側を三の丸が囲む形をしています。堀の水は城の北を流れる差指野川から引かれていました。
1636年(寛永13年)、火災によって三層天守が焼失しましたが再建されませんでした。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新庄城が戦闘の舞台となり、庄内藩に攻められ城は陥落し大部分が市街地もろとも焼失しました。当時の藩主、戸沢正実は久保田藩へ逃れました。新庄城はその年のうちに廃城となりました。
その後、本丸には新庄学校や郡会議事堂が建てられましたが、現在は戸沢神社、天満神社、護国神社が祀られ、最上公園として親しまれています。天満神社は藩政時代から現存する唯一の建造物です。
新庄城の城郭
本丸
本丸には御殿がありましたが、三層天守は落雷で焼失しました。現在は「新庄城天守台跡」の碑があります。
二の丸
二の丸には土塁と濠がありました。
三の丸
三の丸には藩の政庁が置かれ、表御門には石垣の一部が残り、「表御門跡」の碑があります。
最上公園
本丸跡、二の丸跡を含めた城跡は「最上公園」として市民に開放されています。新庄市出身の折下吉延による心字池もあり、最上地方随一の桜の名所としても知られています。春には約300本のソメイヨシノやシダレザクラが咲き誇り、多くの花見客で賑わいます。
毎年4月20日前後に桜が見頃を迎え、「カド焼きまつり」の会場にもなります。夏には天満神社の縁の祭りである新庄まつりが開催されます。
天満神社
天満神社は、新庄城址本丸跡の南西隅に位置し、戸沢家の氏神として旧領秋田県角館時代から尊崇されてきた神社です。
神社の棟札には、寛永五年(1628年)に初代藩主の政盛が建立したと記されています。また、寛文八年(1668年)には二代藩主の正誠が再興したとも記されています。
宝暦六年(1756年)の願文には、9月25日に新祭を営み、領内の平和と五穀成就、住民の幸福を祈ったことが記されており、これが新庄まつりの始まりとされています。
戸沢神社
戸沢神社は明治二十六年に創建され、翌年に完成しました。祭神は戸沢家始祖の衡盛、藩祖の政盛、そして十一代の正実です。衡盛は保元の乱で敗れた平忠正の子であり、木曾義仲に従い源頼朝に仕えた後、岩手県雫石に落ち着き、姓を「戸沢」としました。
藩祖の政盛は秋田県角館の城主盛安の子で、徳川家康に従い数々の功績を認められ、茨城県松岡四万石に封じられました。政盛は新庄に築城し、新庄藩の基礎を築きました。正実は若くして藩主となり、維新の変動期に官軍に属して新庄城を守りましたが、庄内勢により落城し、城下は全滅しました。
明治二年に藩籍を奉還し、その後、新庄藩知事に任命されました。旧領民はこの三人を祭神として戸沢神社に祀りました。ちなみに、戊辰戦争において官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が靖国神社と戸沢神社に保存されています。
護国神社
護国神社は戊辰戦争以来の戦死者を祀っています。この神社は明治二年に新庄藩主の正実が、戊辰戦争の戦死者五十六名を祀るために太田の瑞雲院境内に建てました。その後、明治十六年に遺族の希望により吉川町に移され、さらに明治二十四年に現在地に移されました。
新庄春まつり
新庄春まつりは、新庄市随一のお花見スポットで、美味しいカド焼きも楽しめるイベントです。最上公園は4月下旬に桜の見頃を迎えます。4月20日から始まる春まつりでは、ぼんぼりが灯り、夜桜も楽しむことができます。
春になると、お堀端の約300本のソメイヨシノやシダレザクラが一斉に咲き誇り、花見の名所となります。公園内にある戸沢神社への参道にかかる橋からは、お堀に映った桜の景観が楽しめます。
新庄カド焼きまつり
4月29日から5月5日の間は、「新庄カド焼きまつり」が開催されます。これは春告魚と呼ばれるカド(ニシン)を焼いて春の訪れを祝うイベントで、お花見スポットとしておすすめです。
夜桜を照らすぼんぼりの点灯は18:30頃から21:00まで行われます。「カド焼きまつり」では、旬を迎えた脂の乗った大型のカド(ニシン)を蒸し焼きにした、新庄名物のカド焼きをたっぷりと味わうことができます。
カドは春告魚(はるつげうお)とも呼ばれ、豪雪地帯である新庄市では雪解けとともに入荷するカドを焼いて、見頃の桜とともに春の訪れを喜んだとされています。