歴史
戦国時代の大名である上杉謙信が越後国(新潟県)春日山城で亡くなると、その遺骸は漆を塗り甲冑を着せて埋葬されました。後継者の上杉景勝は、後に豊臣秀吉の臣下となり五大老に任じられ、会津へ移動。それに伴い、謙信の霊柩も越後から会津に移され仮堂に安置されました。
慶長6年(1601年)関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢に移動を命じられ、謙信の霊柩も再び移動。景勝は米沢城本丸に御堂を建立し、謙信の霊柩をそこに安置しました。現在の上杉家廟所は米沢城址の北西に位置し、元々は米沢城に一大事があった場合に一時的に謙信の霊柩を避難させる場所として設けられました。
元和9年(1623年)景勝が他界すると、現在の廟所に埋葬され、以後12代藩主までここに埋葬されることになりました。明治政府の廃城令に伴い米沢城は解体され、謙信の霊柩も当地に移されました。
上杉謙信の霊柩
戦国武将の中でも聖将として名高い上杉謙信は、その死後も上杉家の精神的支えとして大切に祀られてきました。遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、甕には漆が流し込まれ固められています。上杉景勝が越後から会津に移動の際も、春日山城不識庵より謙信の霊柩を移動させ、その周囲にある一片の土も運ばせたと伝えられています。
米沢入りを果たしてからは、米沢城の本丸の高台に御堂(霊廟)を建立し、中央に謙信霊柩、その左右の脇陣に善光寺如来像と泥足毘沙門天像を共に西向きに安置しました。景勝の命により、大乗寺や法音寺など真言宗寺院の能化衆が毎日の供養を欠かすことなく厳修しました。明治を迎えるまで、この供養は厳格に行われました。歴代の上杉家当主も、命日には精進を心がけ参拝供養したと伝えられています。
謙信は生前、真言密教に深く帰依し、自らも権大僧都の位を得ていました。そのため、謙信の遺骨は高野山に納められ、米沢にあるのは分骨であるとも言われています。しかし、これは景勝以降の藩主が火葬した遺骨を高野山に納めたことからの誤伝です。
明治になって、米沢城本丸から謙信の霊柩は上杉家廟所に、善光寺如来と毘沙門天像は法音寺に移されました。当時の御堂は現在、米沢市の長命寺に本堂として移築され、現存しています。
廟所の構造と特徴
米沢城の西1.5kmに位置する上杉家廟所は、杉木立に囲まれた静かな場所です。初めは城内御堂の避難所として使用されていましたが、初代藩主景勝公が亡くなった後、東西109m、南北181mの墓域が設定され、位牌が祀られました。
廟所には入母屋造りの廟殿があり、その中には石造五輪塔が据えられ、周囲には小石が敷き詰められています。7代目までこの形式が続きました。9代藩主治憲(鷹山)が隠居した時、養父8代藩主重定の遺骸を火葬せず土葬とし、覆屋を宝形造りにしました。それ以降、11代目までこの形式が踏襲されています。
上杉雪灯籠まつり
米沢市の冬の風物詩「上杉雪灯籠まつり」は2月中旬頃に開催されます。この期間中、廟所内にも雪灯籠と雪ぼんぼりが設置されます。ろうそくの柔らかな明かりが灯された夜の廟所は、日中とは全く違った幻想的な雰囲気に包まれます。上杉雪灯籠まつりのメイン会場である松が岬公園と合わせて立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
上杉 謙信
上杉謙信(うえすぎ けんしん、1530年2月18日 - 1578年4月19日)は、日本の戦国時代の武将であり、越後国の大名です。本名は長尾景虎(ながお かげとら)で、後に上杉家を継ぎ、上杉謙信と名乗りました。彼は「軍神」としても知られ、その卓越した戦術と勇猛さから「戦国最強の武将」と称されています。
### 生涯
#### 初期の生涯
上杉謙信は、越後国(現在の新潟県)の戦国大名である長尾為景の四男として生まれました。幼少期には寺で修行を積み、その後、家督を継いで越後国の支配者となりました。
#### 家督相続と内乱
1548年、兄の長尾晴景から家督を譲り受け、長尾景虎として家督を継ぎました。当初は国内の内乱に対処し、国内を安定させるために尽力しました。彼はその後、「越後の虎」として知られるようになりました。
#### 上杉家の継承
1561年、関東管領上杉憲政の養子となり、上杉家の家督を継ぎました。このとき、上杉政虎と名を改め、さらに1561年には上杉輝虎、最終的に上杉謙信と名乗るようになりました。
### 戦績
#### 川中島の戦い
上杉謙信の代表的な戦いの一つが「川中島の戦い」です。彼は甲斐の武田信玄と五度にわたり川中島で戦い、その中でも第四次川中島の戦い(1561年)は最も有名です。この戦いでは、謙信自らが馬に乗り、信玄の本陣に突撃したと伝えられています。
#### その他の戦い
謙信は北信濃、関東地方、さらには遠く上洛を目指し、各地で戦を繰り広げました。特に関東の北条氏や、織田信長との対立は有名です。彼の軍事戦略と戦術は、その後の武将たちに多大な影響を与えました。
### 信仰と人格
上杉謙信は仏教に深く帰依し、毘沙門天を厚く信仰していました。彼は戦いの前に必ず毘沙門天に祈りを捧げ、「毘」の旗を掲げて出陣しました。そのため、彼は「軍神」とも呼ばれました。
また、謙信はその人格の高さでも知られています。敵対する武田信玄が病に倒れた際には塩を送って援助したという逸話が残っており、「敵に塩を送る」という言葉は彼の高潔な精神を象徴するものとして広く知られています。
### 最期
1578年、上杉謙信は病に倒れ、急死しました。彼の死後、上杉家は家督を巡って内紛が起こり、これが「御館の乱」と呼ばれる内乱へと繋がりました。
### まとめ
上杉謙信は、その卓越した軍事戦略と高潔な人格により、戦国時代の中でも特に際立った存在です。彼の生涯は多くの戦いと信仰に満ちており、その名は今日まで広く知られ、尊敬されています。
上杉 鷹山
上杉鷹山(うえすぎ ようざん)は、宝暦元年(1751年)に高鍋藩主秋月種美の次男として生まれました。母方の祖母は米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘で、鷹山はその縁により、宝暦10年(1760年)に米沢藩8代藩主上杉重定の養子として迎えられました。明和4年(1767年)、鷹山は17歳で米沢藩15万石の藩主となりました。
### 藩政改革
鷹山が藩主に就任した頃、米沢藩は財政難に苦しんでいました。藩の窮状を救うため、鷹山は大規模な藩政改革を実施しました。彼は以下のような改革を行いました。
1. **大倹約令**:藩の支出を大幅に削減し、無駄を省くための政策を実施しました。
2. **産業開発**:新しい産業を興し、藩の経済基盤を強化しました。特に米沢織、米沢鯉、深山和紙などが有名です。
3. **藩校興譲館の創立**:教育の重要性を認識し、藩士の子弟を教育するための藩校興譲館を設立しました。
4. **政務の革新**:藩政の効率を高めるため、行政制度の改革を行いました。
### 隠居後の活動
鷹山は35歳で藩主の座を譲り隠居しましたが、その後も藩政を補佐し続けました。彼の改革は藩を再建し、米沢藩を江戸時代随一の模範的な藩へと変革しました。
### 名言と精神
上杉鷹山の名言として知られる「なせば成る なさねば成らぬ 何事も」があります。これは「努力すれば成し遂げられる、努力しなければ何事も成し遂げられない」という意味で、鷹山の改革精神をよく表しています。
## 遺産
鷹山の改革は米沢藩に持続的な影響を与え、彼が興した産業や制度は現在も受け継がれています。彼のリーダーシップと改革精神は、今も多くの人々に敬われ、米沢の歴史に深く刻まれています。
鷹山は文政5年(1822年)に亡くなりましたが、その遺産は今日もなお生き続けています。彼の業績と精神は、米沢の人々だけでなく、日本全国で尊敬され続けています。