舞鶴橋の軍旗
参道にある舞鶴橋には「毘」と「龍」の文字が書かれた軍旗が翻ります。「毘」は上杉謙信が毘沙門天を厚く信仰していたことに由来し、「龍」は不動明王を表し、全軍総攻撃の突撃の合図として掲げられた旗です。仏教を篤く信仰した上杉謙信は、戦に際して毘沙門天と不動明王という最強の両神を味方につけて戦ったとされます。
上杉神社 稽照殿
上杉家の遺品を中心に、多数の重要文化財を展示する「上杉神社 稽照殿」(けいしょうでん)は歴史ファン必見のスポットです。稽照殿には、上杉家歴代の宝物や文化財が約300点収納・展示されています。
武具、甲冑、刀剣、絵画、仏器、陶漆器、書籍、服飾類など、多種多様な宝物が収蔵展示されており、国の重要文化財や県指定文化財など、東北一の数を誇ります。文武兼備の智将・直江兼続公の「愛」の字をデザインした有名な兜も展示されています。
稽照殿は大正8年の米沢大火後、上杉神社再建の際に宝物殿として創設されました。設計は、米沢市出身の建築家で文化勲章を受章した伊藤忠太によるものです。稽照殿は神殿と調和を保つ日本風の外観を持つ重層建築で、昭和41年に増設された部分を除き、平成10年に登録有形文化財に認定されました。
桜の名所とイベント
上杉神社は桜の名所でもあり、例年4月中下旬になると水堀沿いに200本の桜が咲き誇ります。毎年4月29日~5月3日に開催される「米沢上杉まつり」では、総勢千数百人の絢爛豪華な甲冑行列が練り歩く「上杉行列」や、戦国史上最大の戦いを再現した「川中島合戦」が見られます。
毎年2月の第2土曜日とその翌日に催される「上杉雪灯篭まつり」では、300基を超える雪灯篭と1,000個もの雪ぼんぼりにろうそくが灯され、幻想的な美しさに包まれます。
松岬神社と境内の施設
「なせば成る、なさねば成らぬ何事も」の言葉で知られる上杉鷹山が祭神として祀られている松岬神社は、上杉神社の摂社です。境内東側に鷹山の像があります(意匠は上杉神社参道に立つ像と異なります)。上杉神社のほど近くにありますので、ぜひ合わせてお参りください。
境内の施設
本殿
拝殿
稽照殿(宝物殿)
上杉謙信公像(参道を右手に立つ)
上杉鷹山公像(参道沿いに立つ)
上杉景勝公と直江兼続公像(天地人像、参道沿いに立つ)
春日神社
福徳稲荷神社
赤穂事件殉難追悼碑(木村東介建立)
摂社
松岬神社
春日神社(境内)
春日神社は、上杉鷹山公が学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正がないことを誓った誓詞を奉納した神社です。
福徳稲荷神社(境内)
歴史と建築
上杉神社は米沢城の本丸奥御殿跡に建立され、松が岬公園の中央に位置しています。現在の本殿は明治神宮や平安神宮の設計者として知られる米沢市出身の伊東忠太の設計で、大正12年に再建されました。
天正6年(1578年)、戦国時代の名将・上杉謙信は越後春日山城で急逝しました。上杉謙信の遺骸は城内の不識庵に仏式で祀られました。しかし、次代の上杉景勝が慶長6年(1601年)に米沢へ移封されると、上杉謙信の祠堂も米沢に移されました。
明治時代になると神仏分離令や廃城令が発布され、上杉謙信の遺骸は城内から上杉家廟所に移されました。米沢藩の中興の名君・上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」として設立して、明治9年(1876年)に現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座されました。
明治35年(1902年)には別格官幣社に列せられました。この時、鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に移され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなりました。
大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼しましたが、大正12年(1923年)、米沢市出身の伊東忠太の設計により、現在の本殿と宝物殿「稽照殿」が再建されました。
鯉供養
上杉鷹山が海から遠い米沢で貴重なタンパク源を得るために藩士に鯉を飼わせ、鯉を食べることを奨励したことから、米沢では鯉の食文化が根付いています。鯉の消費拡大を図るために制定された5月1日の「鯉の日」には、米沢鯉商組合が1960年(昭和35年)から鯉の供養と商売繁盛を祈念して「米沢鯉供養祭」を開催しています。供養祭では、上杉神社宮司による神事のあと、鯉が境内の池に放生されます。
上杉神社境内には鯉供養之碑が建立され、そこには米沢藩支藩の家臣が鯉の飼育方法を学び、上杉鷹山が隠居後に苗鯉池を設けたことなどが書かれています。
米沢城
米沢城(よねざわじょう)は、山形県米沢市丸の内に位置する平山城です。中世から近世にかけて、長井氏と伊達氏の本拠地であり、江戸時代には米沢藩上杉氏の藩庁および二の丸に米沢新田藩の藩庁が置かれていました。2017年には続日本100名城に選定されました。
## 城の概要
米沢城は市街地のほぼ中心に位置し、戦国時代後期には伊達氏の本拠地でした。伊達政宗がこの城で生まれ、江戸時代には上杉景勝や上杉鷹山などが住んでいました。城は本丸、二の丸、三の丸からなる輪郭式の縄張りで、10基の櫓と17棟の門がありました。上杉氏の築城当時は30万石の大名の居城でしたが、天守は構えられず、代わりに本丸の東北隅と西北隅に三階櫓が建てられていました。
現在、本丸跡は上杉神社の境内となっており、二の丸跡には米沢市上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)が建っています。また、米沢図書館には1725年と1811年の米沢城城下絵図が所蔵されています。
## 歴史・沿革
### 鎌倉時代
米沢城が最初に築かれたのは鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)と伝えられています。鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男、長井時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城されたとされていますが、これを証明する史料や遺構は確認されていません。
### 室町時代
8代目の広房は室町時代初期に伊達宗遠に攻められて米沢を追われました。それ以降、安土桃山時代まで米沢は伊達氏の支配下に入りました。天文17年(1548年)、伊達稙宗と晴宗の対立である天文の乱を経て、晴宗は本拠地を米沢城に移しました。その後、晴宗から輝宗、政宗と当主が変わっても米沢城は伊達氏の本拠地として使用されました。
### 戦国・桃山時代
天正17年(1589年)、政宗は蘆名義広を破り黒川城に本拠を移しましたが、翌年には再び米沢城に戻りました。その後、置賜郡は蒲生氏郷の支配下に入り、蒲生郷安が米沢城主となりました。慶長2年(1597年)、上杉景勝が米沢城主となり、重臣の直江兼続が6万石で米沢城を治めました。
### 江戸時代前期
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、上杉氏は米沢に移り、以後米沢藩の居城となりました。慶長13年(1608年)には景勝の命で城の大改修が行われました。
### 江戸時代中後期
9代目の治憲(鷹山)は藩政改革を行い、財政再建に成功しました。次代の上杉治広も学問を奨励し、文化7年(1810年)に表彰されました。上杉斉定も天保7年(1836年)に表彰され、藩の石高は18万7千石に加増されました。
### 幕末から明治
戊辰戦争では、米沢藩は奥羽越列藩同盟に加わり、戦後4万石を減封されました。明治2年(1869年)、版籍奉還により上杉茂憲が米沢藩知事となり、最終石高は15万7千石となりました。明治4年(1871年)に廃藩置県が行われ、米沢県が設置されました。
### 大正から昭和
大正8年(1919年)の米沢大火で上杉神社と伯爵邸が焼失しましたが、大正12年(1923年)に再建されました。昭和25年(1950年)には伯爵邸が米沢市に譲渡され、中央公民館として利用されました。昭和54年(1979年)には上杉記念館に改変されました。
### 平成から21世紀
平成9年(1997年)、伯爵邸は登録有形文化財となりました。2017年(平成29年)には続日本100名城に選定されました。同年、上杉雪灯篭まつりで御三階櫓の雪像が再現され、ライトアップされました。
## 構造
米沢城の本丸には藩主の住居があり、天守の代わりに東北と西北に三層の隅櫓(御三階)が置かれていました。二の丸には藩の役所や法音寺・大乗寺などがあり、三の丸には上級・中級家臣の屋敷がありました。町人町は城外に置かれました。
城の石垣は少なく、土塁が多用されており、質素な造りとなっていました。これは財政の逼迫や上杉氏の伝統的な城館建築の影響とされています。
上杉謙信
上杉謙信(うえすぎ けんしん、1530年2月18日 - 1578年4月19日)は、日本の戦国時代の武将であり、越後国の大名です。本名は長尾景虎(ながお かげとら)で、後に上杉家を継ぎ、上杉謙信と名乗りました。彼は「軍神」としても知られ、その卓越した戦術と勇猛さから「戦国最強の武将」と称されています。
### 生涯
#### 初期の生涯
上杉謙信は、越後国(現在の新潟県)の戦国大名である長尾為景の四男として生まれました。幼少期には寺で修行を積み、その後、家督を継いで越後国の支配者となりました。
#### 家督相続と内乱
1548年、兄の長尾晴景から家督を譲り受け、長尾景虎として家督を継ぎました。当初は国内の内乱に対処し、国内を安定させるために尽力しました。彼はその後、「越後の虎」として知られるようになりました。
#### 上杉家の継承
1561年、関東管領上杉憲政の養子となり、上杉家の家督を継ぎました。このとき、上杉政虎と名を改め、さらに1561年には上杉輝虎、最終的に上杉謙信と名乗るようになりました。
### 戦績
#### 川中島の戦い
上杉謙信の代表的な戦いの一つが「川中島の戦い」です。彼は甲斐の武田信玄と五度にわたり川中島で戦い、その中でも第四次川中島の戦い(1561年)は最も有名です。この戦いでは、謙信自らが馬に乗り、信玄の本陣に突撃したと伝えられています。
#### その他の戦い
謙信は北信濃、関東地方、さらには遠く上洛を目指し、各地で戦を繰り広げました。特に関東の北条氏や、織田信長との対立は有名です。彼の軍事戦略と戦術は、その後の武将たちに多大な影響を与えました。
### 信仰と人格
上杉謙信は仏教に深く帰依し、毘沙門天を厚く信仰していました。彼は戦いの前に必ず毘沙門天に祈りを捧げ、「毘」の旗を掲げて出陣しました。そのため、彼は「軍神」とも呼ばれました。
また、謙信はその人格の高さでも知られています。敵対する武田信玄が病に倒れた際には塩を送って援助したという逸話が残っており、「敵に塩を送る」という言葉は彼の高潔な精神を象徴するものとして広く知られています。
### 最期
1578年、上杉謙信は病に倒れ、急死しました。彼の死後、上杉家は家督を巡って内紛が起こり、これが「御館の乱」と呼ばれる内乱へと繋がりました。
### まとめ
上杉謙信は、その卓越した軍事戦略と高潔な人格により、戦国時代の中でも特に際立った存在です。彼の生涯は多くの戦いと信仰に満ちており、その名は今日まで広く知られ、尊敬されています。
上杉鷹山
上杉鷹山(うえすぎ ようざん)は、宝暦元年(1751年)に高鍋藩主秋月種美の次男として生まれました。母方の祖母は米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘で、鷹山はその縁により、宝暦10年(1760年)に米沢藩8代藩主上杉重定の養子として迎えられました。明和4年(1767年)、鷹山は17歳で米沢藩15万石の藩主となりました。
### 藩政改革
鷹山が藩主に就任した頃、米沢藩は財政難に苦しんでいました。藩の窮状を救うため、鷹山は大規模な藩政改革を実施しました。彼は以下のような改革を行いました。
1. **大倹約令**:藩の支出を大幅に削減し、無駄を省くための政策を実施しました。
2. **産業開発**:新しい産業を興し、藩の経済基盤を強化しました。特に米沢織、米沢鯉、深山和紙などが有名です。
3. **藩校興譲館の創立**:教育の重要性を認識し、藩士の子弟を教育するための藩校興譲館を設立しました。
4. **政務の革新**:藩政の効率を高めるため、行政制度の改革を行いました。
### 隠居後の活動
鷹山は35歳で藩主の座を譲り隠居しましたが、その後も藩政を補佐し続けました。彼の改革は藩を再建し、米沢藩を江戸時代随一の模範的な藩へと変革しました。
### 名言と精神
上杉鷹山の名言として知られる「なせば成る なさねば成らぬ 何事も」があります。これは「努力すれば成し遂げられる、努力しなければ何事も成し遂げられない」という意味で、鷹山の改革精神をよく表しています。
## 遺産
鷹山の改革は米沢藩に持続的な影響を与え、彼が興した産業や制度は現在も受け継がれています。彼のリーダーシップと改革精神は、今も多くの人々に敬われ、米沢の歴史に深く刻まれています。
鷹山は文政5年(1822年)に亡くなりましたが、その遺産は今日もなお生き続けています。彼の業績と精神は、米沢の人々だけでなく、日本全国で尊敬され続けています。