米沢の郷土料理と美しい庭園
上杉伯爵邸は現在、米沢の郷土料理「かてもの」を味わうことができる唯一の館として開放されています。「かてもの」とは、飢饉による凶作からの飢えを救うために主食に植物などを混ぜて増量し、空腹を癒した食物です。
東京の浜離宮庭園を模して造られた庭園を眺めながら、歴史の味を再現した伝統の郷土料理をぜひ味わってみてください。
上杉伯爵邸の歴史
上杉伯爵邸は、明治29年に元米沢城二の丸跡に上杉家14代茂憲(もちのり)伯爵の本宅として建てられました。当時の敷地は約5,000坪、建坪530坪という壮大な大邸宅でしたが、大正8年の米沢大火で焼失しました。その後、大正14年に銅板葦き、総ヒノキの入母屋造りの建物と、東京浜離宮を模した庭園が完成しました。
設計者は中條精一郎、施工は名棟梁江部栄蔵によるもので、かつては皇族の御宿所ともなった文化財的価値のある邸宅でした。平成9年には国(文化庁)によって登録有形文化財に指定されています。
上杉鷹山とかてもの
上杉家第9代藩主上杉鷹山公は、凶作に備えるために「かてもの」という食の手引書を編纂し、藩内に配布しました。この手引書のおかげで、米沢のみならず他県にまで広く食糧事情を救うために役立ちました。
飢饉による凶作から領民を救うために、貯蔵米を多くすることや、主食のかてとして食べられる植物の研究が進められました。「かてもの」は天明3年の凶作以降、藩医に命じて進められた研究成果をまとめたものです。
内容は主食のかてになる植物82種の食べ方を詳しく説明し、味噌の製造法、干物の作り方、魚・鳥・獣の肉の調理法などが含まれています。この書は後の大飢饉にも役立ち、米沢地方のみならず他県にも広く食糧事情を救うために役立ちました。現在も多くの教えが郷土料理として受け継がれ、米沢地方で生活に息づいています。
上杉 鷹山:米沢藩を再生させた名君
波乱の時代を生き抜いた、改革の旗手
上杉鷹山は、宝暦元年(1751年)に日向国(宮崎県)高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれました。幼名は松五郎。母方の祖母は米沢藩4代藩主・上杉綱憲の娘であり、その縁で宝暦10年(1760年)に米沢藩8代藩主・上杉重定の養子となります。
明和4年(1767年)、17歳という若さで家督を継ぎ、米沢藩15万石の藩主となりました。当時の米沢藩は、財政難と家臣の不和という深刻な問題を抱えていました。
苦難を乗り越え、藩政改革を断行
上杉鷹山は、藩の窮状を打開すべく、決断的な行動に出ます。まず、徹底した倹約政策を推進し、無駄な支出を大幅に削減しました。さらに、産業振興に力を入れ、米沢織、米沢鯉、深山和紙などの特産品を育成し、藩の財政基盤を強化しました。
また、教育にも力を入れ、藩校「興譲館」を設立し、人材育成にも尽力しました。さらに、家臣たちの意識改革にも取り組み、藩全体の一体感を高めました。
大倹約令:藩の支出を大幅に削減し、無駄を省く政策を実施。
産業開発:新しい産業を興し、藩の経済基盤を強化。特に米沢織、米沢鯉、深山和紙などが有名。
藩校興譲館の創立:教育の重要性を認識し、藩士の子弟を教育するための藩校興譲館を設立。
政務の革新:藩政の効率を高めるため、行政制度の改革を実施。
名言「なせば成る」に込められた信念
上杉鷹山は、「なせば成る なさねば成らぬ 何事も」という言葉を残しています。これは、「努力すれば必ず成し遂げられる。努力しなければ何も成し遂げられない」という意味であり、彼の強い信念と意志が込められた言葉です。
困難に立ち向かう勇気と、先見の明
上杉鷹山の改革は、多くの困難と反対に直面しました。しかし、彼は挫けることなく、強い意志で改革を推し進めました。その結果、米沢藩は見事に再建され、江戸時代随一の模範的な藩へと生まれ変わりました。
後世に受け継がれる、その功績と精神
上杉鷹山は35歳で家督を譲り、隠居しましたが、その後も藩政を補佐し続けました。彼の改革は、米沢藩に持続的な繁栄をもたらし、その精神は現在も受け継がれています。
上杉鷹山は文政5年(1822年)に72歳で生涯を閉じました。しかし、その業績と精神は、米沢の人々だけでなく、日本全国の人々に深い影響を与え続けています。