歴史
瀧水寺 大日坊は、807年(大同2年)に空海によって開山され、その弟子である渡海が開基と伝えられています。出羽三山参道のうち大網口に位置し、出羽三山神社では蜂子皇子を出羽三山の開祖としていますが、大日坊及び注連寺では空海を開祖としています。
大網の名は、湯殿山の本地仏である大日如来と月山の本地仏である阿弥陀如来を掛け合わせた「大阿弥」から来ており、地元では大網を「空海によって聖地として定められ、清められた地」として、湯殿山を高野山と対になる聖地としています。
湯殿山派4か寺の1寺であり、表口別当として古くから出羽三山に対する山岳信仰・修験道の寺のひとつとして栄えました。1640年(寛永17年)には、春日局の寄進により建てられた3間四方の堂に、徳川家光の武運長久を祈願した本尊が安置されていました。
この寺には、1786年(天明6年)に96歳で没した真如海上人の即身仏が安置されています。この即身仏は、厳しい修行の末に体内から脂肪や水分を落とし、身体内の窒素率を消耗し尽くし、腐敗雑菌の発生を防ぎ、朽ちない身となったもので、断食死の後、数年後に掘り出されたものです。
明治時代の神仏分離により、仏教寺院として出羽三山から独立しました。旧地に一山を構えていた頃は、間口42間幅12間の堂々たる大伽藍でしたが、1875(明治8年)に被災してしまいます。また、1936年(昭和11年)には地すべりが発生したため、現在の場所へ移転しています。
本尊
本尊である湯殿山権現は、「金胎両部大日如来坐像」とも呼ばれます。出羽三山は、古来より女人禁制の山とされ、女人の入山ができず、別当寺が湯殿山の女人参詣所でもありました。寺伝では、大日坊の開祖空海が女人を哀れみ、自ら一刀三礼して本尊の金胎両部大日如来尊像を彫ったと伝えられています。本尊は秘仏とされ、丑歳と未歳にのみ開帳されています。
即身仏 真如海上人
旧朝日村越中山に生まれ、農家の長男であった真如海上人は、ある日、山から材木を運搬中に3人の子供に頼まれ、大そりに乗せたところ、一人の子供がそりの下敷きになり死亡してしまいました。その弔いと幼少より仏教に親しんでいた事もあり、大日坊に出家しました。20代より即身仏を志し70余年の間、難行苦行を積み重ね大飢餓に苦しむ衆生を哀れみ96歳で入定しました。
徳川家との縁
徳川三代将軍・徳川家光の乳母の春日局が参詣し、後の四代将軍・徳川家綱が生まれ、徳川家光の無事世継ぎの御礼として徳川家光が金剛界大日如来を奉納しました。春日局により本堂も再建され、大日坊は徳川将軍家全国七ヶ寺の一つとして定められました。
金銅仏釈迦如来立像
古代印度で刻まれ、中国・韓国を経て我が六世紀飛鳥時代に渡来したとつたわる古い仏像です。国指定重要文化財。
仁王門
正面左右に風格をそなえた風神雷神が安置され、その奥には鎌倉時代の運慶作の仁王像が鎮座する仁王門(山形県指定文化財)があります。三間一戸の八脚門としては日本最古の建築です。
皇壇の杉
旧境内にそびえ立つ樹高約27メートルの老杉はパワースポットとして注目を集めています。景行天皇の皇子、御諸別皇子を偲んで植えられたとされています。