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湯殿山 注連寺

(ゆどのさん ちゅうれんじ)

古来からの信仰と美しい自然環境、現代アートとの融合

833年(天長13年)、弘法大師空海によって開かれた湯殿山注連寺は、真言宗智山派に属する寺院です。出羽三山の奥の院である湯殿山の参道口に位置し、古くから湯殿山信仰の中心地として栄えてきました。かつて女人禁制だった時代には、「女人のための湯殿山参詣所」として多くの女性参拝者を集め、湯殿山信仰の普及に大きな役割を果たしました。

2009年(平成21年)に『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で二ツ星に選定されました。即身仏、天井画、鰐口などが評価されています。境内の「七五三掛桜」は樹齢約200年以上のカスミザクラで、鶴岡市指定天然記念物です。森敦の小説『月山』の舞台としても知られ、境内には森敦文学碑もあります。

寺名について

寺名の「注連」とは、注連縄のことです。境内の桜の木「御神木の七五三掛桜」に注連縄をかけていたことに由来します。注連縄は神道における祭具で、「神域と現世の境界にある結界」を表します。注連寺は出羽三山の参道口にあり、女人結界が存在しました。

注連縄の締め方は七五三掛で行われ、このことから「七五三縄」とも呼ばれました。注連寺が七五三掛口と呼ばれるのはこれに由来します。

即身仏 - 鉄門海上人

注連寺には鉄門海上人(恵眼院鉄門海上人)の即身仏(ミイラ)が厨子に納められ、公開されています。山形県内には庄内地方を中心に8体の即身仏が安置されていますが、そのうち5体が注連寺に入門し、湯殿行者となった注連寺系即身仏です。鉄門海上人の即身仏は、湯殿信仰の布教と衆生救済の聖者として篤い信仰を集め、注連寺は即身仏の聖地とされています。

鉄門海上人は1768年(明和5年)に鶴岡市で生まれました。25歳のとき、注連寺第69世の寛能和尚の弟子となり、「鉄門海」(「海」は空海の「海」)の名を戴き、一世行人となりました。

鉄門海上人の足跡は北は北海道から南は四国にまで及び、湯殿山信仰の布教に大きな業績を残しました。異国船の来航や地震などの自然災害が頻繁に発生した時代、多くの人々に希望を与え、心の支えとなりました。

鉄門海上人は3000日にも及ぶ苦行を経て、弘法大師空海と同じく数え62歳で即身仏となりました。即身仏となる理由は、伝染病の流行や飢饉などで苦しむ民衆の救済を祈願し、自らの苦しみを代わりに引き受けるためとされています。

即身仏とは
即身仏とは、湯殿行者が湯殿大権現(大日如来)と一体となるため、自らの穢れを取り除き、山草や木の実だけで命を繋ぐ木食行を行います。そして苦行の後、衆生の苦しみを代行し、救済を成し遂げ、三世の人々の幸福を祈り続ける生き仏です。

旧注連縄と先達の七五三縄

江戸時代後半に使われていた先達の七五三縄には、表に三山先達、裏に注連掛口の文字が刻まれています。弘法大師は高山に登り見渡すと、八方に峰が連なり、曼荼羅の中央八葉の地がありました。これにより、この地を聖域と俗界の境とし、葛羅を集めて注連を張り、八葉中台、つまり注連寺境内に護摩壇を築き、上火の行を修しました。白衣を身にまとい、白冠をかぶり、首には葛羅で結んだ七五三を掛けた八大金剛童子が現れ、大師を湯殿山へと導いたのです。

行者と参拝者
行者や湯殿山の参拝者は注連寺でお祓いを受け、身を清め、八大金剛童子の装束と同じ姿になって湯殿山を目指しました。江戸時代には月山参拝の八方七口の1つである注連掛口(しめかけぐち)として参拝者で賑わいましたが、時が経つにつれて、参拝時には白衣や宝冠を着けず、七五三縄だけを首に掛ける姿が受け継がれています。参拝後は、自宅の玄関や神棚に七五三縄を掛け、魔除けのお守りとしています。

天井絵画

注連寺では、現代アートも楽しむことができます。本堂の天井には、故村井石斎画伯による伝統絵画と現代作家四人による絵画が展開されています。これらは天界と俗界の接点を天井に見立てた秀作です。

木下晋作「天空の扉」
久保俊寛作「聖俗百華面相図」
十時孝好作「白馬交歓の図」
満窪篤敬作「水の精」

心の世界の不思議な空間をお楽しみください。

御神木 しめかけ桜

注連寺境内にある七五三掛桜は、弘法大師が注連縄を張り、この樹の下で修行されたという「かすみ桜」の一種です。この桜は、弘法大師が湯殿山の御神体と等しいと定めた御神木で、5月上旬に白色の花を咲かせ、次第に桃色に変化する神秘的な魅力を持っています。昭和57年公開の映画「遠野物語」でも幻想的に演出されました。

歴史

833年(天長10年)に空海(弘法大師)によって開山されたと伝えられており、湯殿山派4ヶ寺の中で最も新しい寺です。出羽三山神社では出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の開祖を蜂子皇子(能除大師)としていますが、注連寺や大日坊では湯殿山の開祖を空海とし、湯殿山と高野山を「空海によって定められ清められた対となる聖地」としています。

1581年から1582年にかけて最上義光が新庄を中心に大宝寺氏(武藤氏)と争う中、前森氏が謀反を起こし、武藤義氏の居城尾浦城を取り囲みました。寒河江高基は義氏の救援に向かいましたが、到着前に尾浦城は落ち、義氏は自害しました。その際、大綱注連寺より三千仏の画像三幅対を持ち帰り、慈恩寺弥勒堂に寄進しました。

注連寺は、出羽三山参道のうち七五三掛口に位置し、女人禁制の時代は「女人のための湯殿山参詣所」として信仰を集めました。江戸時代初期には天宥によって天台宗への改宗が図られましたが、湯殿山派4ヶ寺が結束して幕府に訴え、湯殿真言を守りました。1867年には北海道函館に注連寺の出張所を開くなど、広く知られるようになりました。しかし、明治の神仏分離に伴い湯殿山参詣所としての役割を失い、次第に廃れました。

1951年、作家の森敦が注連寺に滞在し、1974年に小説『月山』で芥川賞を受賞。この小説は組曲や映画にも派生し、注連寺も注目を浴びることとなりました。現在の堂宇は明治時代に焼失したものを再建したものです。

2009年にフランス語版『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で二ツ星に選定されました。天井絵画には村井石斎による「飛天の図」などがあります。

2009年には、寺の門前の七五三掛地区が地すべりで大きな被害を受けましたが、注連寺への影響はなく、参拝・見学は通常通り受け付けています。この地区は映画『おくりびと』のロケ地でもあります。

御縁年および文人:森敦との縁

作家森敦(1912-1989)は、昭和49年に小説『月山』で第70回芥川賞を受賞しました。この小説は、森が1951年(昭和26年)に注連寺でほぼ一年間過ごした経験に基づいて描かれています。

注連寺の境内には、森敦の揮毫による月山文学碑(1981年建立)と森敦文庫(1986年開設)があり、その功績を後世に伝えています。注連寺は『月山』や『われ逝くもののごとく』(1987年刊、第40回野間文芸賞受賞)など森の著書に数多く登場します。

なお、森敦文庫は建物の老朽化により取り壊されましたが、文庫内に展示されていた収蔵品の一部は平成24年10月に鶴岡市馬場町にある鶴岡公園(鶴ヶ岡城址公園)内の『大宝館(郷土人物資料館)』に移設されました。

鰐口

注連寺にはミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで一ツ星に選ばれた鰐口があります。これは日本最大級のもので、直径5尺5寸、重量100貫目です。

Information

名称
湯殿山 注連寺
(ゆどのさん ちゅうれんじ)
リンク
公式サイト
住所
山形県鶴岡市大網字中台92-1
電話番号
0235-54-6536
営業時間

5月〜10月 9:00〜17:00
11月〜4月 9:00〜16:00

料金

拝観料
大人 500円
中高生 400円
小学生 300円

駐車場
50台
アクセス

山形自動車道 庄内あさひICから車で15分
山形自動車道 月山ICから車で40分

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