宗派と勅願寺
本山慈恩寺は、檀家を持たず、「鎮護国家」「国家安寧」などの勅願寺として、時の権力者から庇護されました。江戸時代には幕府より2800石余の寺領を受け、東北随一の巨刹となりました。宗派は、南都の法相宗、平安仏教の天台宗、真言宗が入り、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院となっています。
境内には、重要文化財の本堂をはじめ三重塔や薬師堂などが建立されており、平安・鎌倉時代の仏像群は我が国の仏教美術の至宝として重要文化財の指定を受けています。また、5月5日に奉奏される慈恩寺舞楽は、重要無形民俗文化財となっています。平成26年10月には慈恩寺旧境内を含むエリアが国史跡として指定されました。
本尊は弥勒菩薩で、脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する、日本国内でも珍しい五尊形式です。創建当初は八幡大菩薩を鎮守神として祭っていましたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院として慈恩宗を称しています。
地勢
慈恩寺は山形盆地葉山の山裾に位置し、寒河江川扇状地より一段高い段丘上にあります。院坊屋敷地と境内地は東西700m、南北200mの範囲に収まります。標高約125mの扇状地辺縁から仁王坂を上ると標高約146m、さらに参道を160m進むと標高156mに達します。参道の階段は比高差約13mで、山門の標高は169mです。山門をくぐると階段があり、本堂が位置する平坦地は標高172mです。
参道付近の院坊屋敷地は東側が標高180mの尾根に囲まれており、西へ行くに従って緩やかに下りますが、田沢川によって隔絶されています。つまり、南は比高差20m以上の崖地、東は標高180mの尾根、西は田沢川、北は葉山の山塊に守られています。この外側には結界を守る4つの神社があり、西は八面大荒神、東は箕輪の折居権現、南は八鍬の鹿島神社、北は白山権現です。この結界は東西2.1km、南北3.6kmに及びます。
歴史(創建~再興)
奈良時代(創建)
伝承によれば、神亀元年(724年)に行基がこの地を選び、天平18年(746年)に聖武天皇の勅により婆羅門僧正菩提僊那が寺院を建立したとされます。山号は寒江山とし、大慈恩律寺と称しました。
しかし、奈良時代盛時の勅願寺であれば平地に七堂伽藍を建築するべきところを、慈恩寺は山中に伽藍を構築しており、山岳寺院の傾向を持ちます。麻木脩平によれば、慈恩寺の開創時期は平安初期の9世紀と考えられます。その根拠として、弥勒菩薩を本尊とする寺院の多くが平安初期に創立されたものであり、永仁の大火(1296年)で焼失した本尊も平安初期の檀像風の像であったと考えられます。また、慈恩寺は法相宗の寺院として南都仏教系の人によって創建されたと考えられ、南都系僧侶が出羽国にまで教線を拡大していた時期は平安初期までです。
平安時代(再興)
天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が阿弥陀堂(常行堂)、釈迦堂(一切経堂)、丈六堂を新造しました。阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と一切経五千余巻を釈迦堂に安置し、丈六尺の釈迦像を丈六堂に奉納しました。山号は雷雲山に改められ、白山権現を鎮守としました。この再興には天台宗の影響も考えられます。
仁平年間(1151年 - 1153年)には興福寺の願西上人を本願者、平忠盛を奉行として再興しました。慈恩寺再建には藤原基衡から平忠盛への奉行の転換があり、久安5年(1149年)から仁平3年(1153年)にかけて奥州藤原氏と藤原摂関家が年貢増徴をめぐって争ったことが遠因とされています。
保元元年(1156年)、後白河天皇の勅宣により今熊野十二所権現を勧進し、社殿を建立しました。保元2年(1157年)の火災で本堂が焼失しましたが、永暦元年(1160年)に再建されました。
鎌倉時代~現代
戦国時代から江戸時代
応仁元年(1467年)の応仁の乱の開始と共に、室町幕府の衰退が明らかになり、東北地方でも国人領主の台頭が顕著になりました。文明11年(1479年)、伊達氏が寒河江城を攻めましたが、寒河江氏一族の結束に乱れがあり、慈恩寺弥勒堂に誓紙を納めました(『幹縁疏』)。厳冬のため干戈を交えず撤退した伊達氏は、翌文明12年(1480年)に再び侵攻し、菖蒲沼(現:寒河江市大字寒河江字菖蒲沼)付近で激闘を繰り広げました。寒河江氏は伊達側大将桑折播磨守を討ち取ります。同年、桑折播磨守の菩提を弔うために時宗松蔵寺が開かれ、後に最上院滅罪の寺となりました。永正元年(1504年)、山形城主最上義定が寒河江領に攻め入り、兵火により一山仏閣、坊舎が悉く焼亡しましたが、本堂の諸仏は無事でした(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。
仮本堂が築かれましたが、寒河江氏の内紛や伊達氏・最上氏の抗争に巻き込まれたため、本堂再建は江戸時代まで待たねばなりませんでした。天文年間(1532年 - 1555年)に葉山との関係を断ち、以降は三合山(十部一峠)を奥の院としました。これにより葉山修験は次第に衰退し、江戸時代には出羽三山から葉山が外れました。
天正11年(1583年)、最上氏は庄内武藤氏(大宝寺氏)の攻略を企図しました。寒河江高基は義氏救援のために進軍しましたが、途中で義氏の自害を聞き、引き返しました。この時、高基は大綱注連寺より三千仏の画像三幅対を持ち帰り、慈恩寺弥勒堂に寄進しました。天正12年(1584年)、最上氏の攻撃により高基が自害し、寒河江氏が滅亡しました。慈恩寺は最上氏の庇護を受け、所領は黒印地として安堵されました。
江戸時代
慶長5年(1600年)、山形城主最上義光は関ヶ原の戦いに際して、慈恩寺に「立願状」を出して戦勝を祈願しました。江戸時代に入ると、最上義光は三重塔を築造し、慈恩寺領の指出検地を行いました。『最上義光分限帳』によれば2,889石だったとされています。元和4年(1618年)、義光の孫の義俊の時に本堂の再建が完了しました。元和8年(1622年)に最上氏が改易されると、慈恩寺領と衆徒所有の土地が幕領となりました。一山は寺領の安堵を求め、翌元和9年(1623年)に許可されました。別当坊は南光坊天海に接近し、慈恩寺を高野山南光坊(天台宗)直末とする請願が許されました。華蔵院と宝蔵院は改宗に反対し、長年にわたり抗争を続けましたが、寛永19年(1642年)に別当坊は上野東叡山寛永寺の末寺となり、天台宗に改宗しました。
戊辰戦争から現代
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発し、2月頃から佐幕派の庄内軍が寒河江に駐屯しました。4月には仙台藩を主力とする官軍が入り、慈恩寺では天童に宿泊する副総督・澤為量に見舞いを出しました。4月25日から26日にかけて、庄内軍千余名が慈恩寺に宿泊し官軍を牽制しましたが、最上川を越えて天童に攻めかかり、230戸余を焼き討ちした後に撤退しました。
明治元年(1868年)に神仏分離令が出され、明治4年(1871年)には寺社領の返上を求める上知令が出されました。明治5年(1872年)には修験禁止令が出され、慈恩寺修験の諸行事は行われなくなり、困窮の極みに達しました。しかし、明治14年(1881年)に「行者会」を結成し、年1回当番宅へ集まり山伏の服装をしてお経を唱え山伏料理を出して修験の遺風を伝えています。
明治43年(1910年)法令改正により、華蔵院は智山派総本山智積院の本寺、宝蔵院も智積院の末寺、最上院は比叡山延暦寺の末寺となりました。昭和27年(1952年)、慈恩寺は天台真言両宗慈恩寺派として独立し、昭和47年(1972年)に慈恩宗大本山慈恩寺として独立しました。昭和35年(1960年)、明治5年以来88年間途絶えていた柴燈護摩会が復活しました。
昭和54年(1979年)、文化庁文化財主任調査官鷲塚泰光の来訪を契機に悉皆調査が行われ、平安時代の仏像が発見され、文化財指定されました。平成4年(1992年)の「べにばな国体」に合わせて秘仏開帳が行われました。平成26年(2014年)、慈恩寺旧境内が国の史跡に指定されました。
伽藍
天仁の再興時の伽藍
天仁の再興では釈迦堂、阿弥陀堂、丈六堂が築造され、続いて仁平の再建では妙楽院弥陀堂、鐘楼、講堂、宝蔵、二王門、中門、廻廊、温室などが築造されました。しかし、永正の兵乱(1504年)を経て、これらの建物は全て焼失してしまいました。現在の伽藍は本堂を中心として、東から阿弥陀堂、薬師堂、本堂、天台大師堂、釈迦堂の順番に並んでいます。
かつての伽藍
『瑞宝山慈恩寺堂社之目録(是古来目録也)』を元に1504年以前の伽藍を記載します。
本堂
当初の築造年は不詳。三間四面方六丈。本尊は弥勒菩薩、不動明王、降三世明王を安置。保元2年(1157年)に焼失するも、本尊は焼失を免れる。永暦元年(1160年)に再建。永仁4年(1296年)、本尊とともに焼失。大江氏により嘉元4年(1307年)に再建されるも1504年に焼失。
阿弥陀堂(常行堂)
天仁元年(1108年)築造。一間四面方三丈三尺。本尊は阿弥陀三尊を安置。延文元年/正平11年(1356年)に焼失。
釈迦堂(一切経堂)
天仁元年(1108年)築造。一間四面方三丈一尺。釈迦三尊、普賢菩薩、文殊菩薩、十羅刹女を安置。1504年に焼失。本尊は重要文化財。
丈六堂
天仁元年(1108年)築造。一間四面方三丈七尺。丈六尺の金色釈迦像を安置。延文元年/正平11年(1356年)に焼失。本尊の頭部は焼け残ったが、明治期に流出。
鐘楼
仁平年間(1151年 - 1153年)築造。三間。鳥羽院院宣により鋳造した洪鐘があった。延文元年/正平11年(1356年)に焼失。
講堂
仁平年間(1151年 - 1153年)築造。九間四面、南北八丈、東西四丈。賓頭盧尊者等身像を安置。延文元年/正平11年(1356年)焼失。
宝蔵
仁平年間(1151年 - 1153年)築造。三間四面、南北二丈、東西三丈。金銀泥五部大乗経を納める。鳥羽院御持経、婆羅門僧正が東大寺大仏の開眼供養で用いた袈裟一条、釈迦牟尼仏陀舎利は聖武天皇が下給し婆羅門僧正が伝えたものであるという。延文元年/正平11年(1356年)焼失。
中門・廻廊・温室
仁平年間(1151年 - 1153年)築造。五間。金剛力士二尊を安置。延文元年/正平11年(1356年)焼失。
妙楽院弥陀堂
仁平年間(1151年 - 1153年)築造。再建を奉行した平忠盛が建立し阿弥陀三尊を安置した。延文元年/正平11年(1356年)焼失。
薬師堂
中院(または東院、上の寺:現在の本堂より500mほど東)に築造されていたが建立者・時期は不明。薬師三尊、十二神将を安置。正応3年(1290年)良源阿闍梨により聞持院と改められ、1504年の兵火は免れたと思われるが16世紀中葉以降に廃れ、安置されていた仏像などは本堂東の薬師堂に移された。
禅定院
西院と呼ばれ現在の本堂より250mほど西に築造されていた。頼覚上人によって建立。本尊の木造阿弥陀如来坐像(現在は慈光明院(山形市)の本尊)の墨書名が寛元5年(1247年)であることから13世紀の半ばには建立されていた。戒堂三間、僧堂三間、庫院三間、不動堂、経堂三間から成る。享保12年(1727年)の時点で阿弥陀堂のみが残っており、現在は浄土宗不動山正覚寺 (寒河江市)の阿弥陀堂として移築されている。
現在の伽藍
慈恩寺本堂
元和2年(1616年)に山形城主・最上家親の代に建立が始められ、元和4年(1618年)に完成しました。
三重塔
慶長13年(1608年)に築造されましたが、文政6年(1823年)に焼失し、文政13年(1830年)に再建されました。本尊は木造大日如来坐像です。
山門
元文元年(1736年)築造。3間1戸の楼門造で、入母屋造、八脚門で銅板葺です。両側には密迹金剛・那羅延金剛を安置しています。二層を楽屋として本堂に向かって舞台が組まれ、5月5日の慈恩寺舞楽が行われます。
熊野神社本殿
延宝9年(1681年)築造。木造、一間社流造、梁間1間、屋根は鉄板葺です。
宝蔵院表門
慶長年間(1596 - 1615年)に築造。木造、1間1戸、四脚門、屋根は切妻造鉄板葺です。
阿弥陀堂
元禄8年(1694年)築造。方三間、宝形造。棟梁は長谷川武右衛門。本尊は木造阿弥陀如来坐像。
薬師堂
元禄5年(1691年)築造。方三間、宝形造。大工は東光坊、光明院ほか。本尊は木造薬師如来及び両脇侍像。木造十二神将立像。
天台大師堂
延享3年(1746年)築造。方三間、宝形造。棟梁は矢作惣兵衛。
釈迦堂
元禄8年(1694年)築造。方三間、宝形造。棟梁は柏倉八郎兵衛。
寺領
上野村(寒河江市白岩上野)
南北朝期以前からの寺領。北寒河江荘。史料初出は延元2年(1337年)盛俊田在家宛行状(宝林坊文書)。
八鍬村(寒河江市八鍬)
大江氏の寒河江荘入部により慈恩寺へ寄進。以後は工藤氏が代官として治める。川のはた(慈恩寺舞楽舞童帳)、鹿島、かにつくり、北原、中田面、樋口。
箕輪郷(寒河江市箕輪)
明徳3年(1392年)慈恩寺門徒が神輿を振り置きし慈恩寺領となる。寺役を負担。
檜皮(寒河江市日和田)、醍醐(寒河江市醍醐)、慈恩寺中院(慈恩寺本堂付近)、慈恩寺西院(禅定院付近)
寺内。
たるしつい郷(所在不詳)、高瀬郷(寒河江市島)、なかとみ郷(所在不明)
寒河江荘内であり寺領には属さないが、買地安堵状(避文:さりぶみ)が残る。
熱塩郷(西川町大字睦合、寒河江市大字宮宿)
文明4年(1472年)、白岩満教が慈恩寺梅本坊に対して1,400刈を与える。
石川村(寒河江市西根)
慈恩寺領178石(他、二渡観音堂領14石余、鹿嶋明神社領19石、葉山権現社領10石余の朱印地があった)。
参詣道
六十里街道(陣ケ峰)
鳥居坂-桜橋-本堂参拝(堂庭)-鬼越坂-日和田-天満・道海(河北町)-最上川渡船-若木山若木神社参拝(東根市)
六十里街道(八鍬)
寒河江川渡船―醍醐―仁王池・仁王坂―仁王門―本堂参拝
文化財
重要文化財
本堂
本堂(附:厨子1基)は元和4年(1618年)に最上氏によって築造されました。桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺の建物です。明治41年(1908年)に特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されました。昭和28年(1953年)には半解体修理が行われ、令和4年(2022年)から令和6年(2024年)にかけて茅葺屋根の葺き替えや補修、天井絵の剥落止めが行われています。
本堂内には以下の尊像が安置されています。
木造弥勒菩薩
釈迦如来坐像
地蔵菩薩坐像
不動明王立像
降三世明王立像
木造騎獅文殊菩薩
木造騎象普賢菩薩
十羅刹女像
木造二天王立像
木造如来坐像及び両脇侍立像
木造如来立像
木造菩薩坐像
木造力士立像
木造弥勒菩薩及び諸尊像(5躯 附:像内納入品)
本堂宮殿内に安置され、永仁6年(1298年)に寛慶が作成しました。当寺の本尊である弥勒菩薩像を中心に、釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像が含まれます。平成元年6月12日に指定され、平成5年6月10日に像内納入品が追加指定されました。これらの像は顕教と密教の教義を示しています。
木造釈迦如来及び諸尊像(10躯)
平安時代の作。大正4年(1915年)に旧国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定され、昭和62年(1987年)には木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像(4躯)、木造騎象普賢菩薩及び十羅刹女像(5躯)が重要文化財に指定されました。平成30年(2018年)にこれらが統合指定されました。
木造薬師如来及び両脇侍像(3躯)
薬師堂の本尊であり、延慶3年(1310年)に院保が作成しました。平成7年6月15日に指定され、常設展示されています。
木造聖徳太子立像(附:像内納入品)
少年の姿の聖徳太子像で、正和3年(1314年)に作られました。胎内には「版本法華経」1巻、「写経法華経」8巻、「浄土説相図摺仏」などが納められています。平成2年6月29日に指定されました。
木造十二神将立像(8躯 附:木造十二神将立像4躯)
薬師堂内に安置され、8躯は鎌倉時代、附の4躯は江戸時代の補作です。平成2年6月29日に指定され、常設展示されています。
史跡(国指定)
慈恩寺旧境内
2014年10月6日に指定されました。指定範囲は本堂を中心とする「本堂境内地」「院坊屋敷地」と後背の「中世城館群」、西の結界「八面大荒神」、および「慈恩寺修験行場跡(山業)」で構成されます。
重要無形民俗文化財
林家舞楽(慈恩寺舞楽)
五月の一切経会で八番の舞を披露します。林家舞楽は貞観2年(860年)に始まり、大永元年(1521年)に慈恩寺に移りました。江戸時代には最上院配下として朱印地を得ていました。
行事
修正会:1月1日。国家安泰、五穀豊穣を祈念
大般若会:2月第1日曜日。国家豊楽、息災延命を祈念
濫觴会:5月4日。一山の年度が始まる日
一切経会:5月5日。慈恩寺舞楽八番の舞を披露
御影供:5月。真言宗の開祖弘法大師空海の法会
東北36不動尊霊場会の柴燈護摩会:6月1日
柴燈護摩会:9月第2日曜日。護摩札の祈願文を火炎に投入
彼岸花:9月半ばから後半。慈恩寺俳句大会やお茶会が開催
慈恩寺大晦日花火大会「雪月華」:12月31日。山門前の仁王堂坂を絵灯篭でライトアップ
除夜の鐘:12月31日