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山形市郷土館

(やまがたし きょうどかん)

擬洋風建築の最高傑作

山形市郷土館は、明治11年(1878年)に建てられた旧済生館本館を霞城公園内に移築利用した施設です。建物は「旧済生館本館」として国の重要文化財に指定されており、山形の近代化を象徴する貴重な建築物として知られています。

館内では、山形の歴史や文化に関する資料を展示しています。特に、医学資料や擬洋風建築に関する展示は見ごたえがあります。

建物の特徴

山形市郷土館は、欧米の建築を日本の職人が模倣して建築した「擬洋風建築」が特長です。建物の象徴である三層楼は、1層目が八角形で石敷きのベランダ、2層目は十六角形の広間があり、ドーム型の緑色の屋根が特徴です。非公開の3層目には、八角形の小部屋と広いベランダがあります。外観は三層ですが、内部は四階建てという複雑な構造を持ち、日本古来の木造建築技術を駆使した高度な職人技が伺えます。

1層目を中心に囲む回廊は十四角形のドーナツ型で、この独創的な建築形態は、横浜にあるイギリス海軍病院を参考にしたと言われています。昭和41年12月に国の重要文化財に指定されました。明治初期の擬洋風建築の傑作と言われています。

内部の装飾

内部の装飾も見ごたえがあります。細部には洋風と和風の要素が随所に見られ、色とりどりのガラスを組み合わせたアーチ型のガラスや、ケヤキで作られた螺旋階段の側面には唐草模様の装飾が施されています。洋風と和風を融合させた珍しい建築様式に注目です。

済生館の歴史

済生館は、1878年(明治11年)に山形県立病院として建設され、当時の山形県令三島通庸の「山形の近代化を図る」という構想のもとに竣工しました。「済生館」の名前は当時の太政大臣・三条実美の命名によるものです。東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ、診療の他に医学校が併設され、オーストリア人医師ローレツを金沢医学校から招聘しました。

経営の問題から1888年(明治21年)には民営となり、その後1904年(明治37年)4月には山形市立病院済生館となりました。

旧済生館本館(三層楼)

建物は、当時横浜にあったイギリス海軍病院を参考にしたと言われています。中庭を囲んで病室を円形に配置し、正面の塔屋は三層構造の独特の形態になっています。当時の人々は、この建物を親しみを込めて「三層楼」と名づけました。

1階の正面玄関は八角形のポーチ、2階は正十六角形の大広間、さらに螺旋階段で3階の八角形の小部屋に通じ、それぞれの階にベランダを配した構造になっています。三層楼の背面には中庭を囲む十四角形の回廊があり、回廊に沿った八室の病室があります。

木造の擬洋風建築として明治初期の代表的な建物であり、ドアの蝶番や屋根の亜鉛板などはドイツから輸入されました。建設は原口祐之を棟梁とし、山形の宮大工と300人の職人たちの手によってわずか7ヶ月で完成しました。

近代化と復元

昭和30年代後半には、創建以来約90年を経て老朽化が進み、病院の近代化が求められるようになりました。そのため本館は解体することが決まりましたが、文化庁は兼子元吉を主任とする調査事業を行い、現在地の霞城公園内に復原保存されることになりました。

1966年(昭和41年)12月、東北地方の大規模な洋風化の歴史を示す資料として、国の重要文化財に指定されました。昭和44年に移築復元工事が完了し、現在は「山形市郷土館」として当時の姿を伝える歴史資料館となっています。1・2階を一般に公開し、郷土史や医学関係資料を展示しています。

展示内容

済生館の歴史

初代山形県令三島通庸の功績を紹介するパネルや、医学校も兼ね備えた済生館に関わる資料を展示しています。

ローレツ先生の部屋

ローレツの活躍で医学校は東北地方でのドイツ医学の拠点となりました。彼に関する品々を展示しています。

薬剤関係資料

江戸・明治時代の薬の容器が展示されています。漢方医が薬の材料を保管する「百味箪笥」も展示しています。

医学機器・病院資料

当時、済生館で使用されていたドイツ製の顕微鏡をはじめとした、様々な医学機器を展示しています。

2階講堂・郷土資料

講堂は授業や式典等の行事で使用されていました。また、三条実美の「済生館」の扁額を飾っています。

Information

名称
山形市郷土館
(やまがたし きょうどかん)

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