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山寺芭蕉記念館

(やまでら ばしょう きねんかん)

奥の細道の世界へ、松尾芭蕉を辿る旅

松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で山寺を訪れてから300年を記念して、奥の細道にゆかりの深い山寺(立石寺)の地に建てられました。山寺と相対する高台にあり、山寺を一望できます。を迎えることを記念し、

館内の魅力

外観は山寺一帯の景観と調和した和風平屋建てで、館内には芭蕉の真筆のほか、奥の細道関連の資料が展示されており、芭蕉に関する映像も鑑賞できます。その他には、京都北山杉を用いた本格的な数寄屋造りの茶室や研修室もあります。

常設展「芭蕉の生涯」

常設展「芭蕉の生涯」では、俳人・松尾芭蕉の生涯と業績を、芭蕉の周辺と蕉門、描かれた山寺等、収蔵品を中心に様々なテーマで紹介しています。

絶景の見晴らし台

記念館裏手の見晴らし台からは、奇岩・怪石群の中に立石寺がたたずむ絶景を見渡すことができます。春は桜、夏は真っ盛りの緑、秋は紅葉、冬は水墨画を彷彿とさせる雪景色の山寺を望むことができ、その美しさは息をのむほどです。

松尾芭蕉について

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、1644年 - 1694年)は、江戸時代前期の俳諧師で、伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身です。幼名は金作、通称は甚七郎、甚四郎、名は忠右衛門、のち宗房と称しました。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めました。北村季吟門下です。

芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人です。ただし芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んでいました。

奥の細道の旅

1689年3月27日に松尾芭蕉は弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名です。

西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の河合曾良を伴い松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出ました。下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、松尾芭蕉にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれました。

松尾芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅を終えました。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かいました。12月には京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごしました。

山寺での句

「閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)」は、松尾芭蕉が1689年7月13日に出羽国(現在の山形市)の立石寺(山寺)に参詣した際に詠んだ発句で、『奥の細道』に収録されています。随伴した河合曾良が記した『随行日記』では、山寺や石にしみつく蝉の声とされています。この句は『奥の細道』の中でも秀吟の詩として知られています。

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山寺芭蕉記念館
(やまでら ばしょう きねんかん)

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