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最上義光歴史館

(もがみ よしあき れきしかん)

山形の礎を築いた戦国武将

最上義光歴史館は、出羽虎将と称された最上義光と最上氏歴代、山形城のほか、地元山形の歴史を幅広く紹介している公立博物館です。織田信長から拝領した三十八間総覆輪筋兜や鉄製指揮棒など、最上義光の数少ない貴重な遺品が公開されています。

展示内容

山形城の構築や城下町の整備に力を注いだ戦国武将、最上義光とその家族、山形城に関する資料を幅広く展示しています。

館内には、全国第5位の57万石を領した出羽最上家第11代当主、最上義光が長谷堂合戦の際に身につけていた「最上義光公所用三十八間金覆輪兜」をはじめ、甲冑や指揮棒などの遺品、長谷堂合戦図屏風、山形城本丸のふすま絵などの絵画類や調度品を多数展示しています。また、小中学生向けには「義光クイズ」が用意されており、楽しみながら歴史を学ぶことができます。

戦国武将 最上義光

最上義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての出羽国の大名であり、最上氏第11代当主です。山形城の築城や城下町の整備に力を注ぎ、南羽州に勢力を広げました。縁戚である伊達輝宗・政宗と争い、関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦では上杉家の直江兼続を退け、57万石の版図を築きました。

生い立ちと家督相続

義光は天文15年(1546年)に生まれ、父・最上義守と母・小野少将の娘の間に生まれました。幼名は白寿丸で、15歳で元服し、将軍・足利義輝より偏諱を賜り義光と名乗りました。彼は寒河江城攻めで初陣を飾り、その後も数多くの戦で活躍しました。義光の妹・義姫は伊達輝宗に嫁ぎ、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えました。

出羽統一期

義光は家督相続を巡る抗争の中で勝利し、その後も最上氏庶流の天童頼貞・東根頼景・上山満兼などとの戦いを経て、最上郡全域を支配下に収めました。天正14年(1586年)には小野寺義道と有屋峠で戦い、羽州探題・最上氏の勢威を回復させるための戦を繰り広げました。

豊臣政権下

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、本領24万石の安堵を受けました。その後、山形城の改築に取り組み始め、秀吉から羽柴の名字を与えられました。秀次事件では娘の駒姫が京三条河原で処刑され、義光夫妻の悲嘆は激しいものでした。

慶長出羽合戦

慶長5年(1600年)、家康は会津の景勝が軍備を増強していることを詰問し、これを受けて奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方しました。義光は最上領を守るため、少数の兵力で上杉軍に対抗し、長谷堂城の戦いでは守将・志村光安率いる1,000名が上杉勢相手によく城を守りました。

最上義光公の遺品

最上義光歴史館には、多くの義光公の遺品が展示されています。中でも「最上義光公所用三十八間金覆輪兜」や鉄製指揮棒は、戦国時代の貴重な遺物として注目されています。

Information

名称
最上義光歴史館
(もがみ よしあき れきしかん)

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