霞城公園の桜
霞城公園は、山形市随一の桜の名所であり、約1,500本の桜が咲き誇ります。桜の季節には、東から南濠沿いの桜がライトアップされ、「霞城観桜会」が開催されます。
山形市郷土館(旧済生館本館)
霞城公園内には、1878年に山形県立病院として建設され、1969年に移築復原された「山形市郷土館(旧済生館本館)」もあります。明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作と評価され、国の重要文化財に指定されています。無料で見学可能で、当時の医療器具などが展示されています。
建物のそばには、「首洗い石鉢」が現存し、最上義光公が最大のライバルだった白鳥十郎長久を殺害した際にその首を置いたという、血なまぐさい謂われのある史跡です。
最上義光の銅像
敷地内には、勇ましい最上義光の銅像があります。最上義光は戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名で、出羽山形藩の初代藩主です。山形城の城主は度々入れ替わったにもかかわらず、義光公が一代で大名にのしあがり、町の発展に貢献したため、その人気の高さから銅像が建てられました。最上義光が先陣を切って合戦に向かう雄姿が表現されています。
山形城
山形城(やまがたじょう)は山形県山形市霞城町にあった城で、別名は霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)、吉字城とも呼ばれています。国の史跡に指定され、日本100名城にも選定されています。
山形城の基礎は最上義光の時代に作られ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられました。江戸時代には山形藩の政庁が置かれ、現在では三の丸が市街地化していますが、本丸と二の丸跡が霞城公園として残されています。霞城公園は以前は運動公園として整備されていましたが、現在は史跡公園として整備が進められています。
山形城の大手南門は市内の万松寺山門として移築され、現存しています。また、市内八日町の宝光院の本堂は御殿の建物を移築したもので、県指定文化財となっています。
歴史と沿革
前史
山形城が立地するのは山形盆地南側、馬見ヶ崎川扇状地の中央やや北寄りで、羽州街道と笹谷峠の合流点に位置します。鎌倉時代までは最上郡の中心として栄えました。
最上氏による築城
南北朝時代の正平11年/延文元年(1356年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、翌年に山形城を築城しました。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏の居城となりました。最上義光は慶長年間に城郭を拡大し、三の丸を構築、家臣団の屋敷を置きました。さらに城下町を整備し、慶長出羽合戦で得た出羽57万石の本城となりました。
江戸時代
元和8年(1622年)に最上氏が改易された後、鳥居忠政により改修がなされました。鳥居氏以後も藩主家は度々変わりましたが、次第に城の格式と規模は低下し、江戸中期以降は城の維持が困難になりました。幕末には御殿は二の丸に置かれ、本丸は更地となり、三の丸の西半分は田畑になっていました。
近代
明治3年(1870年)に山形藩が転封となり、城郭は大破して外壁や矢倉も風雪に耐えかねる状態でした。城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地となりました。日露戦争凱旋を記念して歩兵三十二連隊の帰還将兵が明治39年に周囲にソメイヨシノを植林し、桜の名所となりました。
現代
戦後、二の丸の内側は霞城公園となり、二の丸の外側は市街地化が進みました。昭和61年(1986年)には国の史跡に指定され、江戸末期の資料に基づいて東大手門や本丸の復元が行われました。平成3年(1991年)には二の丸東大手門が修復および復元され、この門の規模は江戸城の城門に匹敵します。
平成18年(2006年)には本丸の正門にあたる一文字門に架かる大手橋が復元され、同年4月6日には日本100名城に選定されました。平成25年(2013年)には本丸大手門枡形内の高麗門および土塀が復元され、翌年8月から公開が始まりました。
規模と構造
山形城の三の丸の内側の面積は235haもあり、日本国内では5番目の広さで、奥羽地方では最大の城でした。江戸時代初期の最上氏時代には57万石ありましたが、度重なる藩主交代に伴い石高が削減され、維持が困難な状態になりました。
城は本丸、二の丸、三の丸が同心円状に配置された輪郭式平城で、二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られました。城郭は中世の居館を拡張して構築され、本丸には御殿があり、天守は造られませんでしたが、二の丸に代用の三重櫓が建てられていました。
霞城公園を取り囲む水堀は二の丸の濠であり、良く保存されています。三の丸の水堀は江戸期の終わりごろには埋没し、湿地化していたところが多く、現在は住宅地などの地下に埋没していますが、発掘調査の結果、良く保存されていることが確かめられました。