上山城の歴史
上山城の歴史は南北朝時代に遡ります。天童頼直の子、上山満長が上山市松山の虚空蔵山に高楯城を築いたのが始まりです。永正5年(1508年)に伊達氏がこの城を攻め落とし、上山義房は逃亡しました。その後、伊達家臣の小簗川貞範がこの地に入りました。
永正17年(1520年)、最上義定の死去に伴う混乱に乗じて、義房が再び兵を挙げましたが、伊達稙宗との戦いで討ち死にしました。天文4年(1535年)、義房の子である武衛義忠が城を奪還し、天神森に改めて築城しました。これが現在の上山城です。
上山城(別名:月岡城)は、天文4年(1535年)に武衛義忠によって月岡・天神森に築かれました。戦国時代には、最上氏の最南端の城塞として、米沢の伊達氏や上杉氏との攻防の舞台となりました。
上山城は最上氏の最南端の城塞であり、米沢の伊達氏や上杉氏との攻防の舞台となりました。天正8年(1580年)、最上義光は里見民部を寝返らせて上山城を攻め落とし、城主の上山満兼は討ち死にしました。代わって里見民部が上山城主となりました。
江戸時代の変遷
江戸初期、最上氏が改易された後、上山城は歴代藩主の居城となりました。しかし、諸大名が頻繁に入れ替わり、最終的には藤井氏が幕末まで治めました。金森家が転封された際には一度破却されましたが、その壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていました。
明治時代以降
明治時代に入り、1873年の廃城令の影響で上山城は取り壊され、払い下げられました。城跡は月岡公園および月岡神社境内となり、1957年に市の史跡に指定されました。
現在の上山城
1982年には二の丸跡に3層の外観が城郭風の建築が再建され、郷土歴史資料館として再びよみがえりました。模擬天守の内部は郷土歴史資料館として利用されており、映像や多彩な展示方法を取り入れています。季節によって雛人形展や鎧・刀剣展などが行われています。けん玉やかるたなどの昔の遊びコーナーもあり、展望台(天守閣)からは市内や蔵王連峰を一望できます。
遺構と移築建造物
本丸西側には西内堀が残り、土塁、石垣の一部と庭園が現存しています。また、薬医門形式の門が山形県南陽市の旅館「いきかえりの宿 瀧波」に移築され、城内にあった籾蔵が市内の鈴木家に現存しています。
設備とサービス
上山城の売店「かかし茶屋」では、オリジナルグッズや上山市のお土産が購入できます。また、敷地内には「上山城の足湯」があり、蔵王連峰を眺めながら自由に利用することができます。
四季折々の景観
上山城の周辺には四季折々の美しい景観が広がっています。城跡は月岡公園および月岡神社の境内となり、1957年に市の史跡に指定されました。
見どころ
復興天守:二の丸跡に建てられた望楼型の模擬天守で、資料館として利用されています。
出羽国之内上山絵図:正保元年(1644年)に幕府に提出された「正保城絵図」の複写が資料館で不定期に展示されます。
展望台:左奥に蔵王連峰が遠望できます。
藩校明新館跡地:現在は案内図看板で往時の部屋割りなどが紹介されています。
「上中下三字説」石碑:沢庵和尚の教えを記した石碑。
ふれあい足湯:天守跡・登城路に設置され、蔵王連峰を眺めながら入ることができます。